「めぐりあう時間たち」(2002年アメリカ映画)

hitto2011-08-01

DVD映画「めぐりあう時間たち」(2002年アメリカ映画)を観ました。


なんと少し前に録画して観ていた映画で、なんて難解な映画だろうと理解に苦しんだはず・・・なのに、先週末っ子に付いてビデオ店に行き、よりによって手にしたDVDが「めぐりあう時間たち」・・・洋画の中でと迷っていた時に、タイトルと登場人物に惹かれ「これだ!」と思ったのでした。


まるで気付かなかったのは、録画を観た時にはタイトルなど全く頭に入っていなかったから(と、言いわけ)・・・こんなことがないようにブログには感想を書いておこう。
とは言っても、2度目の鑑賞はそれほど悪くはなかったです。
前回観た時の難解な部分が少しは減らすことが出来たからだと思う。


前回観た時は、ジュリアン・ムーアが特殊メイクで30年後のメリル・ストリープの前に現れた時、やっと3人の女性が1本の糸で繋がった瞬間になったけれど(遅い!)それを知っていて改めて観るのでは随分と違いました。


ニコール・キッドマン演じる「ダロウェイ夫人」の作者の時代は1920年代。
ジュリアン・ムーアが1冊の本「ダロウェイ夫人」を持って自殺しようとした日は、1950年代。
メリル・ストリープも「ダロウェイ夫人」の本を持ち、彼女の友人?元恋人?この辺がよく分からないが、詩人としてはかなり有名な彼が、賞を受賞した日に衝撃的な飛び降り自殺したのは2001年。

難解に感じたのは、どの女性にも感情移入できなかったからかも。
のっけからニコール・キッドマンの入水自殺で始まるのだから、観ていて辛い。
心の病を理解するなど同じ病の人間でなければ本当は分からないことだと思う・・けれど、病に苦しみながらも懸命に努力し安らぎを求めているということ、周りに理解されないことの辛さなど、普通の人でもあることだから、これは心の病などと、とても線など引けない。
いつも思うが、無理やり線を引くならば、死を恐れないというところかもしれない。
そういう意味では、ジュリアン・ムーアは踏みとどまった時点で正気であったのだと思う。


「ダロウェイ夫人」の作者がどんな人なのか、傍で見ると恵まれているに違いないのに、現実は囚人のように囲われ生きているという実感が持てずにいる。
自殺未遂を繰り返し、優しい夫は、いつもそれを恐れている。
愛されているのに、どこかで拒否している。
実の姉や姪に対する態度の方が余程親密に感じられた・・・けれど、ふと思った・・・時代と場所は皆それぞれ違っているが、三人ともが女性に思いを寄せている。
外国でも女性同士のキスは同性愛者でなければしないことなのか、現代に生きるメリル・ストリープ以外は、それを表面化することさえ叶わない。
それ故の苦しみだったのかと今更ながらに思い当たる。


メリル・ストリープにしても同性と暮らし人工授精で娘を得、自殺した詩人の彼は世間を欺くカモフラージュだったのかもしれない。
「ダロウェイ夫人」を読む機会があればいつか読んでみたい。


偽り続けながら生きるとは生きていないに等しいことなのか、与えられたものじゃなく、自分の思いに正直になれることが、あるがままに生きるということなのだろう。