ゲゲゲの女房

hitto2010-07-05

NHK「ゲゲゲの女房」を毎朝観ています。
長女もゲゲゲを観てからの出勤らしいが、残念なことに先週の土曜日(休日)、朝寝坊をして見逃してしまったのでした。
私はしっかり観たのですが、「あら、残念なことをしたね。水木さんが良いこと言っていたのに・・。たしか、生きている者には同情しないのですよ・・とか何とか」と、(私って)嫌味なこと。


土曜日は、BSで一週間分を、他に再放送分をいれると、その後に何度も観られるチャンスはあったはずなのに・・ついに、どの時間も気付かずに過ごしてしまった。
どうやっても観たいと思えば、観られるご時世だけれど、そこまでの執着はないよう。

それにしても、水木しげるさんのセリフはいつも心にしみ入る、それも後からジワっとしみてくることが多い。
「生きている者には同情しないのですよ。死んだ人間が一番可哀相です。自分を可哀相がるのは、つまらんことですよ。」と、淡々と仰るところが、生きてきた時間の重みを感じさせる。


戦争という惨たらしい体験をしてきた人の言葉だから、しかも、こうもアッサリと言うところが非常に堪える。
それに控え、なんと生き恥を晒して生きていることか・・と、自分に置き換えても自分の生き方に同情の余地はまったくない。
生きていることは全くといって恥の連続で・・生きている以上は、寧ろ恥を晒すこと。それ事態が、生きている証拠だとも思っているのです。
そんなこねくり回した考えは到底ないだろうが、「生きている者には同情しない」という言葉は、「生きているだけで、まる儲け」だろう、という考えに行きついてしまう。
そうするとやはり、どんな悩みも些細なことに思えてくるのです。


「楽しいことをしておれば、気持がほがらかになる」と、時間の使い方のうまい人なのだと思わせるセリフも以前にありました。
どんなに貧乏でも好きなこと楽しいことができる喜びとかは、きっと誰にでも作ることが出来るのだと思う。
漫画を描くという才能や、他のことの才能がなくとも、(才能を)羨む前に、自分の個性をひとつくらい活かすものがきっと何かあるものだとも思うのです。
たとえ好きなことが分からない(出来ない)と生きていたとしても、目の前にある好きなことや楽しいことを数えると、一つや二つあるものだから。


この時代に限らずいつの世も、貧乏は相当辛いもので、憂鬱になりそうだけれど、何かをできる小さな喜びは案外そこいら中にあるということなのでしょう。
逆に、人の裏切りとか、疎外感とか、劣等感や、悲しみ憎しみ恨みや、この世の負の感情は、痛みであっても生きている証と言えそう。
それらの感情に押しつぶされ、解放されたいと死を選ぶのは可哀相なことで、まして望みもしない死というものは、一番可哀相にちがいないと私は思う。


報われないとか、運がないと落ち込んだり、深刻になったりするのは、つまらないことだし、時間が勿体ない。好きなことをいくらかでも努力していく方がいい。

小さなことでも楽しいことを見つけて、好きなものを食べて、笑って過ごせることが、どんなに恵まれていて豊かなことであるか・・と、いつも、いつも、結局は反省するばかり。
そんな自分をブログでも晒して恥でなくして、いったい何なのだと言えるだろうか。
居直ってしまう楽天的なところが、また恥ずかしや。