昨日今日と朝から底冷えがして、今にも雪が降りそうな空模様。
奈良東大寺のお水とりが終わるころに、きっと春と呼べる気候になっているのでしょう。
それでも梅はほぼ満開、今日明日と行楽地は梅見客で賑わいそう。
先週近くの梅林へ行ったときはまだ5分咲きでした。
ウクライナ情勢は混沌を極め、アメリカとロシアの見解が見事に食い違いをみせています。
そこへEU、日本、中国が右往左往している感じ。
日本政府は結局アメリカの意向に沿って財政面の支援、全欧安保協力機構(OSCE)に10万ユーロ(1400万円)拠出するそうな。
戦争はこうして起こりえるのだと、ウクライナのことが対岸の火事と楽観してはいられないという気分に落ち込みます。
周辺国との見解の相違は、ここ日本でも毎日のように伝えられているし、その危険性は高まるばかり、関わり合うことの難しさ、市民感覚では何を言っても良いのだろうが、何も治まらない。
安倍首相批判に燃えるブログを時として見ることもあるが、その心理がわからない。
これも見解の相違なんだろうな。
我が家のお爺ちゃんは、戦争を体験してシベリア抑留3年弱、時流という荒波にも負けないで今を生きています。
その当時のことを聞き出そうにも何かが邪魔をして、未だ聞くことができません。
大雑把なことは聞いているのですが、何を思い、何を考えたのか、それが一番知りたいことでもあるのですが、そこに踏み込む勇気がありません。
このままそっと大往生したほうが良いと思うからで、眠った記憶を呼び起こすのはきっと残酷なことだと勝手に考えてしまいます。
お爺ちゃんの実体験ではなくとも、関連した書物はあることですし、抑留者の体験談なども知ることができます。
そこには一人ひとりの思いが切実に語られ、大きな権力に翻弄された届かぬ悲痛な叫びにも感じられます。
こんなこと誰だって2度と繰り返したくはない。
人が人を殺し合うことの愚かさを全人類が感じていれば戦争なんて起こりようがないと思いますが、国を守るということが、時として危険な思想に走ることも事実。
正義とは何に向けて言えるものなのか、身内や自分自身に恥じない行為だろうか。
しかし国際社会に向けて正義とすることは、互いの認識を同じにしなければ難しいことだから、全く不可能に近い。
何はともあれ対話によって解決されることが、ウクライナに住む人たちの思いなのだろうな、と思います。