62年前の今日、長崎の上空にB29の3機・・・

hitto2007-08-09

朝早く、長男と次男は、一時間違いで白浜方面へ海水浴?へ出掛けた。
2泊3日・・・少しの間静かだ・・・だけど、今日の生協で、大きいメロンが来たんだけど。食べちゃおうか?
青森県産だけど、こんなに大きいとは・・・値段もお手頃、500円。なんか、得した気分。切ってみないと、熟し加減が分からない。外見は、食べ頃って気がする。
食べどきを逃すと、メロンって、不味いから・・・。
なんと、平和でノー天気なことを書くものだ。と、平和ボケを有り難く感謝して・・・


今日、戴いた生協の冊子・・・私の戦争体験集から
とても、ショッキングな事実に基づいた文集を・・・

新宮市の堀さん(80歳)の方から寄せられた戦争体験です・・・抜粋して。

6人兄弟の長男・・・兄弟は皆今も健在・・・私の青春は、支那事変(日本の中国に対する侵略戦争に対する当時の日本の呼称)から、太平洋戦争へと突入した大変な時代だった。
空襲が日に日に激しくなり、海からの艦砲射撃や、列車や橋を狙った空襲で弾丸が飛び交い、いつ死ぬかわからないほど危険な毎日だった。


昭和20年6月、国の非常事態で、19歳の若さで召集令状が届く。
死を覚悟で入隊。  〜〜〜、8月5日、私たちの連隊に長崎への配属命令が出て、その日の夜中に大阪を出発。
やっとの思いで長崎に着いたのは、8月6日の朝のことだった。
部隊は、長崎駅から歩き、大浦天王堂近く、山の上の大浦小学校に兵舎を構えた。
着くと同時に空襲に備えて、B29の通過方向を考慮に入れた防空壕の補修を行った。その豪は、両方に入り口のあるものだった。これが後になって功を奏した。 


忘れもしない、8月9日(62年前の今日)北東の上空にB29の3機が見えた。
違和感を覚え、「ビラでもまくのか?」と思ったとき、真ん中の1機から「鉄の塊」が落ちた。と思った瞬間、「落下傘」が開いた。そして3機とも逃げるように消えた。
私はとっさに「空中で破裂する爆弾かもしれない」とひらめき、豪に飛び込み、耳と目をふさぐと同時に強烈な爆風と熱風が身体を直撃した。
爆心地より4キロほど離れていたであろうか?
後1秒で死んでいたかもしれなかった。 
 
爆発2〜3秒後、2度と爆発しないと思い、真っ先に豪を出て、「落下傘」が落ちた方を見たとき「きのこ雲」が上がったところだった。いまだにしっかり目に焼き付いている。
すぐに召集され、長崎町内の視察命令がでたが、すっかり景色は変わっていた。
愕然とした。
民家の防空壕は壺型が多かったので、豪内では、爆風による「ショック死」と思われる死者の多いこと。
入り口が2ヶ所あれば爆風が抜けて助かったのに・・・と思った。
私はいろんな意味で九死に一生を得たのだ。 

その日から、電車の張り替え作業と、周辺の民家を調べ、死体収容を行った。
収容作業は、死者の手足を持って運ぶのだが、3日目位になると、皮がずるっと剥けてくるようになった。その時の光景と匂いは表現の仕様がないほど酷いものだった。

その後、長崎駅前に行った「捕虜収容所」と思われる建物があり、屋外に出ていた外人は原爆の直撃を受けたのであろう。皮膚が赤剥けで目を覆うほどすごいものだった。見方に被爆させられるなんて、なんと戦争は皮肉なものかと思った。

後で分かったことだが、大阪から長崎に向かう途中、広島駅を通過したのが8月6日6時頃。私が通過した2時間後に、あの大きな原爆が投下されたと聞かされ、血の気が引く思いだった。なんと幸運な自分であるか・・・。
このことがきっかけで、私は社会奉仕を心掛けています。・・・・・・・と。