考え過ぎかな?

hitto2008-11-11

一日の有ること無いことを書き綴ればキリがない事この上ないが、ブログにはホンの一部分自分を晒けだしてしまう。

家族の中にだけいつもいると、外の人間関係に異常に反応してしまう自分に気付き自己嫌悪。
特に相手の方が忙しくしているのでは?とか、気になると連絡ひとつとるのにもメールにするか電話にするか、さて、どちらにするかと迷ってばかり。

現実には忙しいことを前提に、メールの方が相手にも気を使わさせずに済むのだろうけれど。
こんな事は少し前まではなかった。


何ヶ月も会うことを止めていると以前の気軽さがなくなり、酷く落ち込む。
その気軽さがないことが、既に友達の意味を成していないのか、とさえ思ってしまう自分は考え過ぎなのか。
一方的に思い悩むのは、なんとも無駄なことをしているな、と思ってしまうが。
その遠慮が自分の中に大きな壁を作り、勇気を出して受話器を握る決心をつかなくさせている。
話せば積もり積もったお喋りに発展しそうなのも想像がつくのに。
メールの単語にはない感情が湧くだろうし、簡潔なメールには気持ちをのせるのは難しい・・・というより、懐かしさがこみ上げてこない。声が聞きたいのだから。

ちっぽけな勇気を持つことに、これ程の気持ちが動くことに戸惑う自分が情けない。
仮に忙しく拒否されたとしても有りがちな事として受け入れればいいこと。
突然の電話なのだから。
自分に置き換えても一日に何度も手が放せないことがあるのだし。


気軽さがなくなるまで、忙しさにかまけ連絡を密にしてこなかった自分を反省するべきだ。
いつまでも変わらぬ友情と甘え、勝手に思ってはみても、相手との距離は自然に広がりつつある。
自分を取り巻く環境があるのと同じに、相手にも私の知らない環境があるのだから。
私が知っている彼女はもう随分前の彼女で、今は過去に繋げて尋ねるばかり。
今の彼女を知る手だては何もない。
気持ちの行き違いを恐れるより、今一度受話器を握る勇気を持とう。


それにしても、もう少しマメにならなければイケナイな、と自分に言い聞かせる。
家族の中だけにいるのは楽だけれど、家族がひとりふたりと、いなくなってしまった後には孤独の中に残されてしまう・・・家族がいる時点で本当の意味で孤独ではないか。その意味ではもの凄く恵まれている。
しかし家族しかいない、というのは寂しいだろう。


友達関係も考えてみると、時とともに削ぎ落とされてしまう。
その時その時が一番の親しみを抱く相手だったりするのは、その時の自分を一番よく知ってくれている存在として認められるからか。
心おきなく自分を晒す気兼ねの無い楽しい時間も、時を隔て自然消滅するものは、本当の意味で友情とは呼べないと知るべきなのかな。
只の知り合い程度と思えば、気楽になるか悲しいかは、好きか嫌いの計りがどちらかに傾くまで待てばよい。


しかし、削ぎ落とされた友達関係も実は私にとっては、大切な友だったと寂しく思い出している。
今更だが、何十年も年賀だけの関係だとしても、その時の自分には無くてはならない存在だったのだし。
時が経ち取り巻く環境が変わったとしても、会う機会があれば、わだかまりもなく話が出来るようになるまで、そうは時間をとらないだろうとも思うには思うが。
今の自分の環境に左右され積極的になれない事もあるから、友情を常に確認するのは年賀だけだとしても仕方がない・・・年賀も私達の年代から下では、メールで年賀と流れが変わってきているから、ますます希薄になってしまうのが早いだろうな。
生身の語らいを望むことは、気を使うほど本当に難しいことだ。
連絡はとらないまでも、自分の心の支えになっていることは間違いないと思っている。