こどもの日

hitto2009-05-05

こどもの日。
昨日は、日本一長いアーケード商店街、天神橋筋商店街の4丁目から2丁目辺りをぶらぶらと歩いてきました。
案外に5月の連休の時は、大阪市内の道路もガラガラに空いていて、車も走りやすいのです。


前に行った時は、4丁目から7丁目くらいまで歩いたので、昨日は大阪天満宮を通って、天満天神繁昌亭の方まで歩きました。
いつものウォーキングと違って、右の店、左の店、と立ち寄っては買うのでもなく、ただ見るだけ・・・パーキングの時間予定は2時間までと決めて、制限時間たっぷり堪能できました。



帰りは天王寺にある一心寺へお参りしました。
夫の実兄が眠っています。


昨夜は深夜まで、鬼の居ぬ間の宴会・・・夫婦3組のお喋りに花が咲きました。

考えるとこの5月8日は、お兄さんの52回目の命日です・・・生きていたら58歳でした。
昭和32年、夫の家族は九州、福岡。
大家族が寄り添って同じ地区に生活していたので、親戚の数も多かったのです。


昭和32年の春、お兄さんはピカピカの小学1年生。
とても賢いお兄さんだったと聞いています。

最後の遺影になった写真は、真新しいランドセルを背負った凛凛しい姿です。
友達もたくさんいて、5月の「こどもの日」には、近くの竹やぶの中、子供たち皆で駆け回り遊んでいたそうです。
何人もの子が、その湿気の多い竹やぶで擦り傷を作って帰ってきたそうで、お兄さんの傷は、そう大した傷でもなかったようなのです・・・ところが運悪く、大した怪我でもないところに破傷風という恐ろしい菌が入り、亡くなってしまったのです。




お兄さんより傷の深い子供は何事もなく、なぜお兄さんだけが・・・その時の義父母のショックと嘆きは想像を絶します。
次男である夫は、まだ1歳を過ぎたところ、当時の記憶は何ひとつもないのですが、その時の義父母の気持ちを思うとやり切れません。
その後なぜ本家に納骨せず大阪の一心寺に納骨したのか・・・納骨するまで約5年が経っています。
それまでずっと自宅に遺骨を置いてあった・・・ということを考えると片時も離したくなかったという深い悲しみが感じられます。


それに全財産はたいた後の貧しさで墓を建てることが出来なかったという事情があったのかもしれない。
遠い日の両親の思いがどれ程のものだったのか・・・我が子を亡くした思いは、同じような境遇にならないとわからないでしょう。


きっと長い間「こどもの日」は、あの忌まわしい事故を思い出す日だったのです。
当時の医療がどこまでだったのか想像もできませんが、混合ワクチンもなかった時代、両親も全財産をなげうって治療に注ぎ込んだと聞いては身につまされます。


それから福岡を離れ、長崎へ・・・そして5年後、この大阪へ来たようです。
夫がちょうど小学校入学の歳です。
本当は自分たちも同じ一心寺に入ろうと決めて納骨したのかもしれない。



それから28年後、義母さんが亡くなった昭和60年・・・私たちは結婚していて、長女も生まれていました。
お爺ちゃんは義母の49日の日に間に合うよう、新しい墓を建てました。
そこにはお兄さんの名前だけを刻み、一緒にお参りしています。
そして自分も入り・・・私も入ることになるのか・・・。