育児放棄

hitto2010-08-11

今日から15日までお盆休み。


幼児虐待のニュースに触れるたび、気持のやり場がなくなってしまう。
大阪で起きてしまった幼い子供二人を置き去り、遺体となって見つかった事件。
新聞では特集を組み、このひとつの事例をあらゆる角度から報道している。
その内容があまりに無惨で、子供を思うと可哀そうになり、母親の行動を知るとまたこの母親も可哀そうにと思うようになる。
多分、当事者にしかわからないことだろう。


しつけと称して虐待をする親は多いが、この母親の幼稚さが間違った方法で起こした育児放棄は、かけがえのない小さな命ふたつを誰も気づくことができずに犠牲にさせてしまった。
悔やむ日が延々と続くと思うと、どうにもやり切れなく悲しい。


ことの重大さに気付いたところで、この若さで生涯の殆どを法の裁きによる罰よりも辛い日々を送ることになるのではないだろうか。
この母親は生きる支えを自らの手で奪い去った、命はもう取り返せない。


最近は、社会全体から見ても虐待のニュースが多くなっている。
それに自殺者も驚くような人数にまでなっている、殺人事件も記憶に残らないほど頻繁に起きて、もはや憤る感覚が麻痺するくらい折り重なるように事件を見聞きしている。
好むと好まざるとに関わらず、現代に生きる人々は疎外されることに慣れてしまったように感じてしまう。
外からは何もわからないし、一歩踏み込むことを躊躇している間に、(例え親子、兄弟でさえも)孤立した状態に陥っていることになっていたとしても気がつかない・・と、もしかしたら自分も見えていないだけかもしれない。
親子の距離感が進行している私にとっては、もはや他人ごとではない。
三日と空けず連絡し合っていても、互いに思いやる言葉で現実の問題は隠されがち、遂には孤立した状態のまま大きな事件を起こしてしまうということもこの先あり得ないことではない。
事件が頻度を増してくるごとに憂い嘆き、我が身に問う。