わたしの不幸

hitto2011-01-19

朝、ラジオのFMからロッド・スチュワートの「セイリング」が流れた。
それまでの動作をとめ暫くラジオに耳を傾けていた。
それを聴いていた昔の情景が思い浮かび、胸の下の方からつき上がる感情が突然に現れ泣きそうになる。この頃なんか変、情緒不安定かもしれない。
自由な時間はどんとあるのに何にも集中できない。
無駄に時間だけが過ぎていくようで「お前は何をやっているの?」と心の内の方から声が聞こえてくるよう。


昨日は昨日で、頭の中に「シュプレヒコールの波・・通り過ぎてゆく、変わらない夢を・・・」と、あの中島みゆきさんの「世情」のメロディーが何度も浮かび、声に出すと泣き崩れそうになってしまった。
あの金八さんの情景が浮かんだのではなく、ただなんとなくなのだ。


ブログに向かおうとしても結局自分が何を書こうとしているのか・・支離滅裂な思いだけがグルグルと回り、一向に書こうとする意欲が湧かないまま、どうせ大したブログでもないしとマイナス思考に落ち一日二日を終える。
今日は、正直に気持を載せたいと思う。


この頃、涙もろいのは何故だろう?
自分に対する涙とは違う気がする。辛いとか悲しいとかを感じることはほとんどない。
それどころか、平凡過ぎる自分の境遇を有難いと思っている。
灰谷健次郎さんの「わたしの出会った子どもたち」の最後に書かれている一節に「生きることはなんとすばらしいことだろう。人間は自分の幸福のために生きるのではない。人間が幸福を求めるのは、他人の不幸にがまんならないからである」とある。
裏を返すと、人は人のために何かをすること、それが幸福だと言っているのかもしれない。
でも本当は、この言葉の意味をこの本を読んでいても深く理解するのは難しい。
灰谷さんの生き方を通してしか知る術はないとも思えるし、多分この本にでさえ語り尽くせない思いがあって、やっと書かれた言葉なのだと思うから。


他人の不幸をどう見るか、不幸と決めつけるのはおごりかもしれない。
同情とも少し違う、勝手な思い込みと感情移入といった方がいいのだろうか。
大きなお世話ともとれる勝手な感情だけれど、見ず知らずの他人を勝手に可哀そうと決めて泣くのはドラマを観て泣くように、孤独の中だけにしようと思う。
そうでなければきっと気が振れていると思われてしまうだろう。
できれば、こんな時間などない方がいい。
次から次へと急き立てられるように何かに動かされている方が、人間は幸せかもしれないと思う。
これは私の浅はかな考え。
動けることが最大の喜びだと知るのは、動かない自分をコントロールできなくなったからだろうか。
「動きなさいよ」とまた心の内から声がする。
泣く暇があったら動くこと。
多分それが他人の不幸を少なくすることだから。