17日、日曜日
お昼近く、外からの日差しが、張り替えられた障子に眩しく反射している。
日差しが障子を通して、PCを打つ、私の手元を明るくしている。
PCの後ろに障子の窓(南向き)があって、日本風の柔らかい日差しが暫くは差し込む。
落ち着いた気分になって、私は好きだ。
シミひとつ無い障子は、やっぱり気持ちが良い。
今日の新聞(読売)に「ポケットに一冊 」で斉藤茂田さんの「ゆっくり力」ですべてがうまくいく・・という本の紹介があった。
待ち合わせ時間ギリギリに、息せき切ってやってくる人がいる。
このタイプ、早めに行って待たされると損した気分になる人が多いと、精神科医のモタさんは分析する。
「それは私だ」と思いつつ続きを読むと「時間にケチな人」は結局、時間に追いまくられる。だから15分でもいい、「余裕の時間」という、目に見えない花束を持って待ち合わせの場所に行く・・と、相手はハラハラしないし、自分もドキドキしないという。
子供に「早くしなさい!」と言いたがる親(私がそうだった!)には、子供がつっかえ、つっかえ、ゆっくり成長するから、ゆったり見守ろうとアドバイスする。
(「早く、早く」はじつは、お母さん自身の気持ちの焦り、あるいは怒りを子供に発散している場合が多い)
このほか大人になると習い事が続かないのは、すぐに上手になろうとして、「たどたどしさ」に耐えられないからなど、時間にケチな私には耳の痛い話ばかり。
「出来る人」ほど、ゆっくり生きる・・・この言葉を噛みしめつつ、11月に亡くなった著者を追悼します。・・飼
今朝も時間ギリギリにバイトへ行く次男を見送ってから、夫婦で「誰に似たんだ?」と
話をしていた。
まるで、私の行動パターンだという事を否定出来ない。
夫はどんな時も時間前に行っていて、「余裕の時間」という目に見えない花束を持って待っているタイプだ。
私はと言うと幼い頃から、小学校も中学校も5分で行ける所にあって、遅刻スレスレの滑り込みセーフを楽しんでいた。
それにしても、親には「早く!」と言われた記憶があまりない。
姉妹も4人だったので、親が、一人、一人に注意をする暇は無かっただろう。
ところが私は、その時からの癖が抜けず、子供の参観日さえも息を切らしていた。
だけど、この頃は全く違う。
個人的には、待ち合わせの機会が激減したせいか、花束とまで言わないが、準備に余裕を持つばかりではなく、過ぎる程の準備時間を費やすようになってしまった。
これは又、別問題で回りに支障をきたすが・・・。
自分に対しては、時間にケチでは無くなったが、子供に対しては今だにケチをつける。
早く起きなさい、早く食べなさい、兎に角、早くしなさいと囃し立てる。
なんで?悪循環と知りつつ、気持ちの焦りをぶつけてしまう。
只、バイクや車に乗って出掛ける前は、焦りを押し殺す事が出来る。
ゆっくり焦らずと、真逆の事を言って送り出す。
これって当たり前だけど、違う。
ゆっくり焦らず行って欲しいから、その出発に余裕を持たせる為に「早く!」を準備の段階で言ってしまう事が多いのだ。
言われる方は、大きなお世話という顔をしてマイペースを貫く。
いわゆる言い損という事に、私も気付いている。
故に、怒りを発散しているだけに違いない。
まるで自分の行動を見られた気分になった。
自分達の親の世代は、今の親たち程、子供を構ってはいなかった。
その分、自分の責任で行動範囲を広げられたと、自分に限っては思う。
もっと信用して任せよう。反省。反省。
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昨夜、買い物から帰って来て、夫が一番に風呂へ入ったが、途中で給湯器の異常か?
リモコンの方か?お湯が出ない。
なんて事?
風呂はどうするの?洗顔は?と不便になって、始めてお湯の有り難みを知る。
この寒い時期に何とかしてよ、と電話で修理をお願いする。
日曜日の事だったが、受け付けて貰えた。
が今朝の電話で、今日中に行けるか分からないので又電話をします、と言う。
神頼みしかない。
またしても、急な出費が気になる。
給湯器って高いだろうな?と不安が過ぎるが、何とか修理(安価で)してもらえます様に ・・・。
10年経つと色々な所に支障をきたす。
これも貯金の出来ない私の責任も大きい。
修繕費は必要不可欠なのだけど、せめて、教育費が無くなってからと・・・
優先順位は教育費が先で、修繕費は後回しになる・・・といって考える余裕すらない。
水の冷たさがこの身に浸みる。