祈り・・・

hitto2008-09-04

一気に秋へ突入とはならず、お昼過ぎからの残暑は厳しい。仕事をする手にも汗がにじむ。
けれど、朝の風は涼しく、外での立ち話にも耐えられるようになった。
我が家のヤナギバルイラソウは今が満開で、紫の花を可憐に咲かせている・・・道行く人が立ち止まる。
生協の荷下ろしから暫く話しに花が咲き、雑然とした草花を見るうち、飛来した種が大きく成長しているのを見つけ思わずおすそ分け。
喜ぶTさんは、自分が注文した幸水(梨)がダブってしまったと、みんなに梨をおすそ分け。
笑いの中に幸せのおすそ分けがあるのだと、今日は朝から気持ちが良い。

マザー・テレサの語録を学び、人との関わりが大切なことを知る。
私は無宗教で・・・実は家の宗派が浄土真宗であっても、心はいつも解き放たれているのか、浮遊しているのか・・・全く自由だ。

三人の子供たちをカトリックの幼稚園に通わせながら、何の思惑もなかったけれど、お向かえの時は子供と一緒に帰りのお祈りをしていた。
暮らしの中では、お仏壇に手を合わせ、南無阿弥陀仏・・・とやっている。


京都や奈良のお寺も好きだし、函館や神戸のような教会の匂いのする街並みも好きだ。思うのは言葉や人種、宗教の違いではなく、祈る心なのだと知ると気持ちが晴れやかになる。
まわりにいる大切な人は、私の支えであり、ほんの少し私も支えているのだろう。亡くなった人も私の心の支えであるが、私は亡くなる両親に寄り添うことは出来なかった。それでも毎日祈る事だけは忘れていなかったが、結局一人病院のベットで亡くなったかと思うと、時々やり切れなくなる。


インドのカルカッタでは誰もが貧しく、人混みの中で倒れた老人がいても、それが当たり前のように寄り添う人もなく通り過ぎていた。
マザー・テレサは、一人で街に出て人々に救いの手を差し伸べていた。なんと慈悲深いのだろうか。
マザー・テレサに寄り添われていく老人と、綺麗なベットで孤独に亡くなる両親・・・と、比べるものでもないが、亡くなる時は、特に誰かに寄り添って欲しいものだし、寄り添ってあげたい。

そう、やはり両親に寄り添ってあげたかった・・・今も御免ね・・・と時々言葉に出して言っている。