「俺は、君のためにこそ死ににいく」2007年

hitto2012-09-26

先週の映画DVD鑑賞は「岳」2010年と「俺は、君のためにこそ死ににいく」2007年
領有権問題に頭を抱えている時節柄、二度とあってはならない戦争、特攻隊員に焦点をあてている「俺は、君のためにこそ死ににいく」を観て思ったことを書き留めておこう。


俺は、君のためにこそ死ににいく」2007年
1945年、太平洋戦争末期、無残にも美しい青春があった。彼らを心で抱きしめる女性がいた。
昭和19年、太平洋戦争で劣勢に立たされていた日本軍は、アメリカ軍を中心とした連合国軍によるフィリピン上陸作戦を阻止し、戦局を打開するための最後の手段として、戦闘機や艦上爆撃機などの軍用機に爆弾を搭載して敵艦に体当たりを敢行する自爆攻撃部隊として、海軍は神風特別攻撃隊を編成。激しいライバル関係にあった海軍に先を越された陸軍も、負けじと「振武隊」「特別攻撃飛行隊」を編成する

しかし奮戦空しくフィリピンは陥落し、連合国軍は昭和20年春には沖縄に上陸してきた。日本軍は沖縄を死守するため、各地の飛行場から特別攻撃隊を発進させる。陸軍最大の特攻基地となった鹿児島の知覧飛行場(川辺郡知覧町、現・南九州市)からは終戦までに振武隊の493名の青年達が飛び立った。かつて知覧で飛行訓練を受けていた坂東少尉、陸軍飛行兵から母親のように慕われていた鳥濱トメとその娘礼子などの視点から、特攻隊員となった青年達を描く。byうぃき

左派的な言動が多い井筒和幸が監督した『パッチギ! LOVE&PEACE』と同時期に上映されたこともあり、井筒は上映前からこの映画を「戦争の美化映画」等と評して、映画本編を見ない状態で批判した。この一連の井筒の批判に対して、出演者である窪塚洋介は映画の記者会見にて「映画を観てから評論して欲しい」「この映画を見て、戦争賛美だというヤツはアホ(井筒)だと思う。もう一回見た方がいい。見る前に言うヤツはアホ。右だ左だというけど、鳥は両方の翼がないと飛べないという思いで、日々生きています」と反論。監督の新城卓も「映画を見てからコメントしてほしい。それがお互いの礼儀でありルール。パフォーマンスとしての発言は、やがて本人に返ってくる」「沖縄県出身で国歌も聞いたことなく上京しました。右翼というのならどうぞ。史実をとらえありのままに描きました」とコメントした[2]。また、井筒は、石原に対して、一方的に「映画なら俺が先輩やから先に観に来て欲しい。そしたら観に行こ」等と相互交流を提言[3]したが、実際には、石原のほうが、1958年に映画「若い獣」の初監督を務めている(当時井筒は6歳である)ほか、初監督作以前から現在に至るまで多数の映画脚本を執筆している映画界の大先輩であったこともあり、反応はなかった・・・・・byうぃき

「パッチギ」と同時期だったのか・・と、始めて知る。
2007年の私、このブログを始めているけれど、世の中の流れから随分と離れたところにいて芸能界の情報には興味が持てず疎いです。

「パッチギ」も地上波で観たものの加藤和彦さんの曲が強く印象に残っている程度。
うぃきの情報による井筒監督の強気発言は、あの時代のもので現在ならどうなっていただろう。
あの頃の威勢のよさは今も健在だろうか?


日本が特攻という作戦に至るまで追い込まれていたという状況、実際に志願して亡くなっていった兵隊さんがいたという、紛れもない事実。

以前なら愛国心というものも希薄で、この映画を鑑賞したとしてもさほど意味を持たなかったかもしれません。
ただ愚かな作戦と国を恨んでいたかもしれない。

今では、井筒監督のいう「戦争の美化映画」というが、どこが?と思う。
こんな気持ちでいるのが不思議なくらい、呪縛が解けたかなと思う。
その反面、二度と繰り返してはいけないことと考えるには充分な内容の映画だったと思いました。



実在していたとする鳥濱トメさん(岸惠子)が、常に彼らに寄り添い仮の母親的存在であってくれたことに感銘を受けます。

戦争を起こした原因がどうであったとかというよりも、今現在の日本があるのは彼らの勇敢な行為があったからだし、特攻隊員になった彼らの気持ちを知ることで、私たちも日本人としての誇りを持っていられます。

それと実父と義父が戦争体験者であることにも関係があるかもしれません。
実父の場合は航空隊に志願兵で行った年に終戦を迎えたこともあり、ただ自身の武勇伝として聞かされていましたが、義父は終戦後もシベリアの抑留期間を3年近く経験したこともあり、人には言えない苦労を現在も背負ったままだと思っています。

特攻隊員を扱った映画は何本も観ていたはずなのですが、今の時代だからこそ胸に重く響いたのかと思いました。
10年後は、また違った思いがあるのかもしれません。


●外国人から見た日本人
ベルナール・ミロー、フランス人のジャーナリスト、特攻を深く掘り下げて研究をした「神風(KAMIKAZE)」より
本書の目的は、皮相的な見方から一歩踏みこんで西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。
このことを、我々西欧人は笑ったり、哀れんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。

たしかに我々西欧人は、戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到底できないのである。
アンドレ・マルロー、フランスの作家、冒険家、政治家、第二次世界大戦中はドイツへの抵抗運動に身を投じた。戦後はド・ゴール政権下で情報相や文化相を務めた。
日本は戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。
スターリン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナティックだったろうか、断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった、祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナティズムとは根本的に異質である。人間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。

フランス人のなかには、なぜ若い命をと疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見過ごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から、恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、潔く敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに、男の崇高な美学を見るのである。
私は、出撃時に特攻隊員数名で撮られた写真を何枚か持っているが、どの写真を見てもすべての隊員がまるでピクニックでもしているかのような穏やかで爽やな笑顔をしている事に驚かされる。また、1945年(昭和20年)8月20日樺太へのソ連軍の違法な侵攻の際、最後の電話交換業務に志願し、民間人が避難するのを見届けた後、ソ連兵からの辱めを避ける為に服毒自殺を遂げた、真岡郵便局の9人の若き女性電話交換手のことも忘れることはできない。
参考サイト: ぼやきくっくり(外国人から見た日本と日本人)
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid384.html