「みんな子供だった」

hitto2013-01-12

昨年の夏ごろから始まったと思いますが、倉本聰さんがホストを務めるトーク番組「みんな子供だった」BS・TBS、を山田太一さんがゲストの時から見始めています。
倉本聰さんと山田太一さんと言ったら私の青春そのものの脚本家さんだから、とても興味がありました。
見つけた時から毎週録画して観たいときに観ていました。

http://w3.bs-tbs.co.jp/minnakodomo/archive/201205.html

このお二人が並ぶなんて、あの頃には考え難かったです。
どちらも売れっ子の脚本家とあってライバルと勝手に比べてしまうのもおこがましいことなのですが。

山田太一さんの全盛期、「男たちの旅路」「獅子の時代NHK大河や「岸辺のアルバム」「想い出づくり」殆ど観て知っている。

「想い出づくり」の裏番組が倉本聰さんの「北の国から」っていうのは、倉本さんから始めて聞く話で、全然気付かなかったというか知らなかった。
あの頃の私は、裏番組がなんであろうと山田太一さんの「想い出づくり」の方に軍配を上げていました。
その時代のトレンディドラマとでもいうか、恋愛・結婚をテーマにした身近な作品だったので、それこそ今夜はこれがあるからお先に失礼というくらいでした。

それでも「北の国から」も再放送とシリーズ化された全作品を観て知っていますし、泣かされました。
その大御所二人の対談とあって、何が聞けるのかとてもワクワクして観ていました。

そして、先月のゲストが山田洋次監督。
山田洋次さんにしても倉本さんとは同世代の(倉本さんが少し下)大御所対談とあってとても興味がありました・・それにしても、同じ業界にいて接点があまりない。

山田洋次監督の寅さんシリーズ始め、数々の映画作品は、ほとんど拝見。今や日本映画界筆頭の監督さん。

山田監督の子供時代のことを聞いていて、つくづく考えてしまいました。
映画にしてもドラマにしても太平洋戦争時の実際の日本人の中国人や韓国人に対してのことは、当たり障りのないものばかりでした。

山田洋次監督の話のように、実体験として酷い差別をしてきたと聞かされることはしなかったです。
ネットの中では、今の方が酷いと思うくらい。

http://w3.bs-tbs.co.jp/minnakodomo/archive/201212.html

第5週は過去4回の総集編のように纏められ、満州での体験談に山田監督の思いが伝わってきます。
そのまま今に生きる日本人が引き継ぐべき感情であるかもしれないと、それまでの自分の高慢な考え方を改めよう・・という思いに行き着きました。

特に印象に残った言葉は、あの国を嫌いだとかは可笑しな考え、国と国ではなく、人と人。

当たり前のように理解していた言葉を、もう一度、自分に言い聞かせるかのように聞いていました。



確かに山田洋次監督が満州で暮らしていた時代は、戦中戦後の混乱期、世の中が引っくり返るような時代の流れの中でした。
満州鉄道に努める父親に連れられ、奉天瀋陽)やハルピンで暮らしたそうです。
奉天は清の時代の都が栄えた街だそうで、3歳頃の2年しか住んではいなくて、覚えているのは殺風景だったということ。
春先には黄砂が凄く、馬車の馬糞が凍りつくのとそれが春に解けだして、黄砂と馬糞が地上に舞い上がり、ザラザラしていて臭いところ・・という、殆ど良い思い出ではなかったようです。


ハルピンに行ったのが5歳ごろから、そこはロシアが作った街で、亡命したロシア人(貴族と言ったかな?)が多くいて、ロシア語よりもフランス語を話していたそうです。
ロシア多分ソビエトから逃れた人々で街は賑わっていたのかな・・ハルピンでの暮らしは多感な年ごろでよく覚えているようでした。短い時間だったので、もっと沢山聞きたいと思いました。
いっそ映画にしてくれるといいのに・・などと思いました。



奉天やハルピンで暮らしていた日本人はまだ恵まれていた富裕層で、開拓団で来ていた日本人は北の方に行って大変苦労をしたそうです。

そこでの生活を通して、小学生だった山田少年は差別を中国人に対して行っていて、中国人には本当に酷い思いをさせたと言っていました。
倉本氏も未だに韓国、中国には行けないと言って「良心的な日本人なら、みんな罪の意識がある」と言っていました。
データーとしては残らないので、覚えている僕たちがいなくなれば消えてしまうでしょうが、侮蔑や差別意識は確実にあったということ。

先代の日本人がしてきたことだけれど、今も恨みに思う中国人や朝鮮人がいると思う・・と。



大連の小学校では、豊かな中国人が一人か二人クラスの中にいて日本語を話して勉強していたそうです。
女中さんになる中国人もいて、ほとんどの中国人は貧しい身なりでお腹をすかしていたんじゃないかと、自分は馬車に乗って上から見下ろし馬鹿にしていた・・このころの体験は人間形成に大きく響くもので、後ろめたいと思うか、思わないかでは大きな違いでしょうと・・
戦争が終わって中国人が反発して日本人に襲ってくるのではと、日本人同士で話していたそうですが、これも罪の意識があるということだったのでしょう。


ただ中国人はひとりも襲っては来なかった。
恐かったのは、ロシア軍の方だったと。



ロシアの大部隊が来ると、見物に行ったそうです。
ロシア兵は、女性が多くいてどちらも身体が大きくて、兵隊さんですが、みすぼらしい格好をしていたそうです。
時に歌を歌い、カチューシャをハモって2部合唱で歌っていたそうです。
恐くて屋根裏に逃げたこともあったとか。


そして、八路軍(中国毛沢東の軍隊)が来て一斉に変わったそうです。
八路軍は規則正しく規律のある軍隊で、略奪をしない厳しい軍隊だったそうで、その中にみごとな日本語をしゃべる兵隊さんがいて、聞くと日本の京都大学に留学していたとかで、今も忘れられないと言っていました。



8月15日を境に預金もパーになり、インフレで物価は上がり、時計もカメラも衣類も売ってしまい暮らしが滅茶苦茶になってしまったそうです。
石炭が買えないので、燃えるものは本でも家具でも燃やし、面白そうに高価な蔵書は燃えないと話していました。



日本には昭和22年に博多に着いたそうです。
日本ではアメリカの飛行機が飛び、プレスの効いた軍服、ピカピカの靴で歩いていて、日本はアメリカに占領されてしまったと思ったそうです。
アメリカ兵を見るとロシアの兵隊さんが懐かしいとも言っていました。



話は寅さんの原点。
満州時代、戦後の食べるものも無く大変な時に、空襲で焼け跡の整理を町内会の割り当てでしていたそうです。
列車に乗って物を売りに行ったり、なんでもしたそうです。
そんな中で、面白いお兄さんやおじさんが一緒にいると、楽しくなり一日辛いことを忘れるそうです。
そして満州にいるときに聞いていた落語が好きで、3世代の生活や日本の狭い長屋の暮らしがあるのだと憧れていたそうです。
寅さんは、そんな面白いお兄さんやおじさんだったのかもしれません。
面白いことを言う人は、死ぬか生きるかの辛さや疲れを癒し、食べ物と同じように重要なことだと思ったそうです。


その他に、小津安二郎監督作品「東京物語」のお話や、黒澤明監督とのエピソードなど、面白い話が聞かれました。
長くなったので、この辺で・・