中原中也、生誕100年

hitto2007-04-28

大型連休の始まり・・・朝からバイトへ行く長男次男が、バタバタと、自分の部屋と居間を行ったり来たり・・・各自の部屋のドアが、大きな音でバターン!と何度も閉まり、きっと、お隣にも響いているだろう。
外の風が強く、煙草を吸い始めた部屋で、窓は全開になっているのだから、本当に迷惑な話だ。いくら言っても馬耳東風、忙しく支度を済ませ、バイトに出掛けて行った。
その間に長女とおじいちゃんは、マイペースで食事を済ませていた。
夫は、おじいちゃんが病院へ行きたいと言っていたので、予定を変更して、午後の時間外(病院)に連れて行くと約束している。
この頃のおじいちゃんの血圧が安定していないのは、何か原因があってのことだと、心配の種は無くならない。
夫は、午前中に、歯石をとりに、歯医者へ行った。半年ごとに、必ず歯石をとりに行く、見上げた自己管理なのに、連れの私は大の歯医者嫌い。お父さんの自慢は、虫歯が無い事。とても、大事にしている。


さて、やっと、居間が無人になり、パソコンに書き込む時間が出来た。だけど、すぐにお昼だ。


新聞では、この前から、中原中也のことを生誕100年(明日)とかで、時々取り上げている。朝刊の編集手帳にも中原中也の詩集で始まっていた。
私は、文学とは無縁で生きてきたので、殆ど中原中也の事は知らない。
だけど、この方の類い希な人生に少し引っかかっている。




「在りし日の歌」のあとがきには、「さらば・・・おお我が青春」と結ばれている。
中原中也は、30年の短い生涯を、一度も定職につかず親の仕送りで生活していたらしい。恋に破れ、父の葬儀に出ることも許されず、生前の詩集は「山羊の歌」一冊だけ。しかし、その不遇な一生が嘘であるかのように、今、生誕100年ブームにわく。時に気恥ずかしくなるほど、真っ直ぐなフレーズだ。小林秀雄(彼も生誕100年だ)は、「詩人というより、むしろ、告白者だ」と書き残す。1907〜37山口県生まれ。旧制山口中学を落第し、16歳の時京都へ転校。詩に目覚める。17歳、長谷川泰子と同棲、翌年、親友の小林秀次に泰子を奪われ生涯の傷となった。結婚後、長男(文也)2歳で亡くし心身を衰弱させ死去。中也は、地方から上京し何かになろうともがき、社会、思想的なことは、興味がなかった。当時の無頼派的な書き手たちの高等遊民的浮遊生活?は、今日大衆化してきた傾向にある。可能性を持て余し、都会を漂う若者。2007年の中也は今もどこかに存在するのか。・・・と読売新聞から、抜粋。

ノートにチラッと書き写したので、何日のものか、だれが書いたものかも書き残してはいない。ただ、中原中也って、現代で言うニートだったのか、その詩集に共感する若者が多いのでは?と思った。埋もれた才能を持て余すと言うより、世の中にどれ程、輝く才能を埋もれさせているのか?残念で仕方がない。
中也が生きている間、幸せだったと思える時期はあまりに短い。きっと生きてる喜びより苦しみの方が多かったのか?と思うと涙が出てくる。我が子の人生を思っても、長い間の苦しみから解放され、何とか生きている間に幸福感を子供のものに出来たらと願わずにはいられない。身を崩す程の苦しみがなければ、人の心に響く詩も書けなかったのかもしれないが、やはり悲しい。何かを作り出すというのは、極限状態に自分を追い込むのだろうか?

・・・今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に托し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つてゐる。
 扨(さて)、此の後どうなることか・・・それを思へば茫洋とする。
 さらば東京! おゝわが青春!・・・・


昔、友達の詩集を読んで(誰だったのか?)記憶に残るのは、ただ、最後に「我が青春は、死のごとし・・・」とあって、その強烈な言葉だけが、今も忘れずにいるのは、余程ショックだったのだと思う。私は人生について何も考えていない子供だった。


「あゝ、おまえはなにをして来たのだと・・・吹き来る風が私にいふ」<帰郷> 
花もあれば、嵐もあった激動の時代を顧みて、ひととき、風の声に耳をすますのもいいだろう。
と、今日の編集手帳は結ばれていた。
ダウンロードして、中也の詩に触れてみよう。