親子のつながり・・・

hitto2007-07-11

ここでは、梅雨らしい天候が続いているが、熊本では大変な豪雨で、避難されている方もいる。
災害時にもたらす人との繋がりは、それを期待しない人間にとっては有り難い。
人の親切は、甘えた考えを持たない時に、より、その意外性の善意が身に浸みる。その善意を受けた人間は、人に対して親切に接することを学ぶ。いつか同じ善意を返すように。こんな善意の連鎖が広がれば住み良い世の中になるのだけど。

この狭い家の中に至っても、優しい言葉や思いやりのある行動で、憤る一日が幸せな気分になるというものだ。
それぞれが余裕のない暮らしの中では、相手に対して思いやる事など眼中に無い。バイオリズムのような波がきっとあるのだろう。
充実した日々であれば、自然に優しさが見えるのだが、思い悩む日には微塵たりとも明るい表情は見られない。
まあ、思春期の真っ最中である子供等は、一日の中にも波がある。たとえ些細な事でも敏感に反応している。そのくせ、口うるさい母親が何度も同じ事で叱れば、それに対しての反応は頗る鈍感・・・馬耳東風。
親の思いと子供の思いは、かなり隔たりがある。それが当たり前とも思うが。

自分が子供の時には、忙しかった親の姿と、干渉されていなかった自由な自分の暮らしが思い出される。
干渉される前に、干渉されるべき、はみ出した行動には気を使っていた。親には知られない、はみ出した行動は、多々あったが、それを、親は知らない。
知らないで済んだ親は幸せだ。
私は、自分の親程に忙しくはないので、子供にとっては大きなお世話だ。子供にしても、親の目につく行動が、親の不幸だとは気付かない幼稚さがある。

繰り返し言われた事は、必ず自分のどこかでインプットされていると思うが、自分に言われた小言より、他の姉妹に言われた小言が、案外インプットされている。
自分は、こんなバカな事で怒られまいと思っていた。
要領の良さは2番目、3番目の特技だろう。
今は珍しい、ワンマンな父親の前では、あたらず、さわらず無難に暮らしていた。
夜遅くまで帰らぬ娘を、怒り彷徨い探すことは、私の番には無かったという恵まれた立場ではあったが。
親に意見されない行動は、親に意見を言わせない頑固さを生みだし、衝突した時は、勘当寸前だった。
そこから自立の道が出来ていたと思う。