親同士、互いに戦争体験者・・・

hitto2007-08-06

おじいちゃんは、このピーカンの空の下、歩いて郵便局へ。
郵便局の用事が済んで「序でに、病院へ寄って診察を受けていくから」と電話があった。胃の調子が良くないのか?腸の調子が悪いのか?診察してもらうらしい。

が、ここ数日の食欲は立派なものなのに。
この炎天下、郵便局や、病院へ歩いて往復するだけでも、体力と気合いがいる。
辛くなったら電話してね、と一旦電話は切れたが、お姉ちゃんに車で迎えに行ってもらおうか?と思い付き待機していてもらう。

その間に、私は、念入りにおじいちゃんの部屋を掃除。
お盆が近いので、仏壇の中も磨く。 専用の金属研磨剤を使うと、見違えるように光沢が出る。時間にして一時間は、磨いていただろうか?

折しも、広島原爆記念日。小学校は、今日登校日だったのだろうか?

おじいちゃんも戦争へ駆り出され、シベリア抑留を3年以上も経験している。
数年前までは、一年に一回、戦友会を各地で開き、いつも参加していた。それが、ここ数年訃報が続き、残された元気なお年寄りも少なくなり、やむなく解散・・・というか、会への参加が難しくなった人が増えたので、しょうがなくだったと思う。

年賀状のやり取りや、近い戦友の方とは、時々電話をしているようだ。互いに会うことは、叶わないが、いつも気にはしているようだ。
兄弟に会うことも、今は出来ず、自分の体調を整えるのが、毎日精一杯だろう。
無理は禁物と、自分が一番良く知っているから、何日も慣れない環境にいるのは、この上なく危険なことなのだ。

私の父親も、大正15年生まれ、おじいちゃんより5歳若いが、志願兵で戦争へ行っている。悲惨な戦争の話しは、何故かタブー視されていたのか、改まった話しを聞くこともなく父は死んだ。
私の結婚の時期に始めて対面した親同士、互いに戦争体験者であるので、話が尽きないほどお喋りを続けるのを見て驚いたことがある。
たしか、父の古いアルバムを引き出して、おじいちゃんに説明していた。
結婚する私達は、既に蚊帳の外。
戦争へ行った者同士、強い信頼関係がそこで出来ていたのだろう。互いの立場を思いやり、互いに尊敬の念を示していたと思う。
私は、仲違いすることを思えば、これ程有り難いこともなく、未来の生活設計で頭がいっぱいだった。

それも、これも、今に至る平和は、多くの犠牲者の上に成り立っていること、今もなお苦しんでいる人がいること、原爆などと、そんな惨劇を2度と繰り返さないようにと、戦争を知らない大人達だが、言い続けたい。

お昼、おじいちゃんは、汗を拭きながら、自力で帰って来た。
それだけで、柔な私からしたら尊敬です。