映画「誰も知らない」

hitto2008-07-13

昨日見た映画(録画)『誰も知らない Nobody Knows』2004年日本・・・ 1988年に東京の巣鴨で起きた、子供置き去り事件をヒントに映画化されたもの・・・ウィキペディアに詳しいことが記載されている・・・

カンヌ映画祭審査委員長だったクエンティン・タランティーノのコメント「個人的には、彼の表情が一番印象深かった。毎日多くの映画を見たが、最後まで印象に残ったのは彼の顔だった」と言っていたと・・・余程強烈だったのだろう・・・と今更に・・・納得出来る映画でした。


こういうのは、国の貧しさとか、豊かさとは関係なく、時代にも関係がなく・・・現代社会であってもこんな落とし穴があるのだと知ることが、「誰も知らない」の価値を大きくしている。

誰でも激しい憤りをもちながら「馬鹿な・・・」と口々につぶやき(公になった事件に対しては思うものの)・・・日常の余所の事には殆ど無関心だ。
それを知ったところで、身勝手な母親、父親に腹を立てるのだって虚しい反応のように感じる。
(子供に何も罪はないけれど)無責任な親の言い付けに従順だった子供達の生活が、逞しくも哀れに感じてしまう。

懸命に生きる子供達には、誰かが気付いて何とかしなければと後になって思うものの、ここに登場する大人達は気付かない。


仮にこれが近所に起きていることだとしたら・・・少し疑問に思ったところで、やっぱり気付くのは難しい・・・それ程隣近所との関わりが希薄になっているのは、悲しいことですが。


現実に(我が家の)目の前(10メートル先)のご近所に引っ越してきた家族は、挨拶に訪れはしたけれど、数が月経った今は、もぬけの殻・・・どんな顔だったかも忘れてしまっている。
ベランダには袋詰めされたゴミが覗いている・・・引っ越してしまったのだろうか?その事情を知る術はない。ガレージには車も置いたままだけれど、人が住んでいる気配は感じられない。

仮に子供だけ取り残されているとしたら私は気が付くだろうか?
子供の存在を確認できたとしても当然親は帰って来るのだろうと、素知らぬ振りをしてお節介は焼かないだろう。
人が生活していて、引きこもりになっていたとしても気付かない。


世の中の何処にでも起きている孤独死が近くでも起こり得ることだとしたら、やはり悲しい社会だ。


この映画の場合は、殆ど希なことだと思いながら見ていたが、児童相談所にやって来る子供達なら生活は保障されているので、ここにいた子供達より幸せと考えたい。


ここに描かれた日常はノンフィクションのように(実際はフィクション)映像は淡々と福島明を捉え、私はドキュメンタリーを見せられているような錯覚を起こし、会話さえも真実味を帯びていて、私はジッとして次ぎに何が起きるのかと重苦しくなってしまいました。

柳楽優弥君も演技というより、自然体で言葉を発している・・・それがまたリアルな悲惨さを強調していたのかもしれません。
見終わって、私はただただ腹が立つのと憤る気持ちのやり場がなく・・・現実にはもっと悲惨な子供達がどこかに存在しているのかも・・・などと考えたり、殺されるよりDVよりはマシな人生だと思ったり・・・出生届も無く、死亡届も無い、誰も知らない子供の人生に・・・泣くことも忘れてしまえる自分の感情はいったい何なのか(映画だから・・・と)見ながら無感情を装う自分にも悲しくなる・・・ますます気持ちの持って行きようがなくなる。

この映画の演技風景音楽よりも、この話の内容にずっと捕らわれている。



夕方 女子バレーボール(ワールドグランプリ)第4戦中国(3対1で負けました)との中継を見た後、途中から「ホームレス中学生」を見て、どちらも親のいない兄弟の話しながら、明もせめて高校を出てからの仕打ちになら・・・と思わずにはいられなかった。
こんな親(私)でも居ないよりはマシなのかと・・・それとも、もう子育て放棄した方が、ずーっと子供はしっかり育つものかもしれないな?なんて考えたり、普段と変わらない生活ながら頭の中はゴチャゴチャです。


読売新聞  Y&Y(日曜版)
クロスワードの答え・・・・・ラッキーセブン
数独の答え・・・・・5+8=13・・・13