今年を振り返って思ったこと

hitto2011-12-28

今年は、私にとっても災難が続き、腰痛が悪化して大変な思いをしました。
それでも家族の協力を得てなんとか家事をやり過ごすことができました。って、大袈裟かな、短期間のことだったし。
そのせいか、その時から皆が私に優しくなったような気がします。



長女と長男は家を出て暮らしているので、結局は次男に助けられることが多かったのですが・・ごめんね。
そして一番変わったのがお爺ちゃん。
腰痛で私が動けなくなったからか、私が食事を運ぶ度に感謝の言葉を言うようになりました、長生きできるのは私のお陰だとか、それはとても思いやりのある褒め言葉で、私としては物凄く居たたまれないような、よしてくれよ・・という気持ちにさせられます。
万が一、私が入院するようなことがあってはと、私のことが心配なのか、自分の身を案じているのか(両方でしょうが)互いに健康にだけは気をつけようと、何度も何度も私に言うのです。
私にだけではなく、長女が来たときや夫にも、私が病気になったら、自分は施設に入るか病院へ入れてもらうから・・・なんとも切ない気持ちになりながら「私は、大丈夫。お爺ちゃんこそ気をつけてね」と「わしは、大丈夫や」と、頗る元気な返事が返ってきます、このお決まりの会話を何度も何度も・・階下から呼びつけてわざわざ話すときもあります。



後、何年生きていけるのか、生かせてもらえるのか、そんなこと誰にも分からないことで、生きている以上は今が全て、元気でいる間は人生を楽しもう。
考えすぎて、死について語り始めると、このブログがまるで遺書のようなものになるから、この辺で気持ちにケリをつけよう。
お爺ちゃんも当分大丈夫。縁起でもない話の流れになってしまった。



遺書にしても私のは簡単。
三度の食事をとって、十分な睡眠をとること、悩み事があったら美味しいものを食べて明るい間に考えること、今も子供たちに言っています。
要は元気の源は食べて寝て、残された者に言いたいのはそれだけ。

グランプリファイナルのときの浅田選手の欠場のニュースはとてもショックでした。
亡くなったお母様の気持ちにも真央ちゃんの気持ちにも、勝手に寄り添い苦しんでいました。


自分の母の葬儀を思い出していました。
来年1月は母の13回忌、翌12月に亡くなった父と合同の法事があります。
葬儀以来、家族が揃って札幌に帰省することがなかったので、久しぶりに我が家は子供3人を連れて参加しようと思っています。
法事というより、久々の家族旅行という感じ。
札幌へ出発するのは1月21日から、もう半年も前から予定を組んでいました。
お爺ちゃんには気の毒ですが5日間のショートステイを利用、今から楽しみです。



母の葬儀のすこし前に親戚の葬儀があって、そこで身内の悲しみが激しく、従姉妹たちが泣き崩れたそうで(・・そうで、というのは、わたしは列席できなかったので、姉に聞いた話し)そこで、母の葬儀には泣かないという姉妹で取り決めがなされて、泣くのは家族間だけということにしたのです。
が、気の強い姉妹の間で泣き崩れることはありませんでした。



父も入院していて、葬儀は姉妹と主人たちが中心になって執り行いました。
親戚が多かったので、挨拶回りと言葉を交わすだけで忙しく、気が張っていたと思います、なんとか泣かずに葬儀を無事に済ませられました。
けれども、どこで気持ちが緩み涙のスイッチが入るとも知れず、それも思いもかけない場面で突然襲ってきたりするのです。
泣かないと意識して気丈に振舞っていても心の中の悲しみは消化されないままだったのです。



ひとつ事を終え、段階を経ることに放心する間があり、突然スイッチが入ったり。
しばらくそんな状態が続いていたと思います。
わたしには支えてくれる家族がいたし、母の匂いの届かない遠い地で暮らしているし、そばで母を支えていた姉妹に比べるとずっと気が紛れそうな環境で過ごしています。
それでもこの世にいなくなった寂しさや悲しみを受け止めるには、時間を要しました。



浴室の中で母に呼びかけ、涙ごと湯船に沈んだり、一人になる時間は要注意です。
遺影にさえ、何故そこに入っているのかと亡き母を責めたり。
父が倒れ1ヵ月後には母も倒れ、大阪、札幌間を何度行き来しただろう。
心労で体重が落ち頭部には円形はげ。
両親が入院中、髪を切らなかったのは、誰にも言わなかったけれど快気を祈願する意味ではなく、ただ隠すためでした。
後ろに束ねられるくらいに随分と伸びました。
その後に甲状腺の病ときて、子供たちは育ち盛り、学校や外に出る用事が引っ切りなしでした。
忙しさが悲しみを遠ざけてはいたけれど、そんな中で、それほど親しくない友人の前で突然涙が込み上げたり、ホンの十年前の話しで、ようやく気を持ち直したのはこの日記を始めたころだと思います。



友人がわたしに聞いたことがあります。
「ねえ、子供が幾つになったら親は安心して死ねる?」
自分は親の死から当然立ち直っていると思いこみ(正確にはふりをしていただけだと思います)
「そうね、子供が自立して40歳過ぎたころには(親の死を)受けとめやすいかもね。それまでは頑張って生きていたいね」と言いました。
半分は正直な気持ちです。
なのに、そのころ40歳を過ぎていたわたしでしたが(今も)悲しみが癒えたとは言えません。
だからこそ、悲しみを抱えるということの辛さがすこし分かったような気がして、涙脆くなってしまったのかもしれません。
親の死、最愛の人の死は、どんな年齢になっても辛く悲しいもの、幾つだろうが自分の心に問いかけ十分の時間を要して克服していくしかないことなのだと思います。


克服・・・なんとアバウトな言い方、永遠の別れを受け容れ、納得できるまで向き合わなければ、気持ちを前に向けるのは難しいことだと思います。
始めはフリなのだと思います。
心の整理には、それぞれの個人差があると思います。
わたしの両親の場合、突然の死ではありましたが、病に伏した時間があったことは不幸中の幸いで、こころの中で別れる準備を進めることができたのだと、今なら思えます。
そんな時間を作って亡くなった両親に感謝しています。
若い真央ちゃんも心の準備はできていたのでしょう。
この時間が有るのと無いのとでは、その後の苦しみはきっと違ってしまうと思います。
亡くなった後の悲しみを埋めるとするなら、別の何かを見つけながら時間を潰す作業でしかないかと思います。
そうして悲しみという思いを少しずつですがはぐらかしていく、無くなりはしないのです。
目の前の出来事に気持ちを向け続けることで、何とか凌いでいるだけだと思います。



今年は東北で大地震津波、震災遺児が1000人以上もいるとのことです。
こころの準備期間もなく健気に受けとめている子供たちが1000人以上です、戦後から数え日本国民が一番多く涙を流した年になってしまいました。
今年は本当に悲しい年でした。